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高澤秀次「追悼:大江健三郎と中上健次」
追悼:大江健三郎と中上健次
 
  高澤 秀次◇◇
 
 大江健三郎に『宙返り』という作品がある。中上健次の死後、1999年に刊行されたオウム真理教事件を踏まえた作品で、ノーベル賞受賞後の断筆宣言を撤回し、65歳で逝った武満徹に捧げられた長編である。そのタイトルのように、大江は何度も宙返りを試みた作家だった。

 大きな仕事をした作家は、その生涯で何度か致命的な危機に見舞われる。大江にとっての最初の危機は、言うまでもなく脳に器質障害を持った子供の誕生をめぐる作品、『個人的な体験』である。ここで作家は、自ら幸福な初期短篇の世界に止めを刺し、宙返りの末に3年後、『万延元年のフットボール』(1967年)を著すのだ。

 中上健次が決定的な影響を受けたのは、この最初の宙返りによる転回以前の大江である。11歳年下の中上は、1966年『文藝首都』3月号に、『俺十八歳』(後に『十八歳』に改題)を発表する。歴然と大江の『セヴンティーン』を意識したタイトルだった。初期大江の影を振り切った、『十九歳の地図』が書かれたのが1973年、この間に中上にとっての『芽むしり仔撃ち』に当たる、『一番はじめの出来事』が1969年に文壇デビュー作として、初めて文芸誌に掲載(『文藝』8月号)されている。

 私が大江の初期短篇世界に立ち戻ったのは、2014年に『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)が出た頃で、都内の大学で春セメスター全15回を、初期作品に絞って講読した。このとき、私はある異変に気づいた。受講者には岩波文庫版のテクストをコピーして配布し、自分の手元には読み慣れた『大江健三郎全作品1』(新潮社、1966年初版)を置いて読み進めていくうちに、学生から両テクストには細部に「異同」があることを指摘されたのである。

 結論を先に言うと、大江は中上健次にも大きな影響を与えた初期世界の痕跡を、そこできれに消し去っていたのだ。『他人の足』(主人公は19 歳の「僕」)を例に取ると、大江の初期短篇には、次のような特徴的な文体があった。

「僕らの生活は、外部から完全に遮断されてい、…」
「その午後、学生は黙り込んで考えてい、…」
「円形に寝椅子を並べて少年たちは、学生と話してい、…」
「隣に、少年が面会から帰って来てい、…」

 ざっと、こんな具合だ。これはかなり特異な語法と言うべきで、大江健三郎の稚拙な模倣を脱しきれなかった初期中上にも、それは露骨に「伝染」している。例えばこんなふううに。

「首領格は仲間たちが黒人兵を興味ぶかく注視してい、自分の…」(『日本語について』)

 ところでこした文体は、大江の独擅場では決してなかった。それを私に示唆してくれたのは、ご本人はもうお忘れかも知れないが柄谷行人氏である。集英社版『中上健次全集』編纂の頃、私は年譜製作者として何度か編集責任者の柄谷氏にお会いしたが、あるとき不意に初期中上にも継承された「…い、」は、それ以前に中野重治から大江に継承されたものだと断定的に語られたのだ。そして確かに、中野には歴然としたその痕跡がテクストに残されている。例えば次のような。

「それは勉次も知ってい、彼の属していた合法的組織は解体してい、…」(『村の家』)

 大江に戻って、その改稿の跡を検証しておくと、先に引用した「…い、」は、「円形に寝椅子を並べて少年たちは、学生と話してい、…」だけが、「学生と話していた。」で区切られ、その他は全て「…おり」に変更されている。文体に刻印された初期の影を一掃した大江(『大江健三郎小説全十巻』新潮社、1996―1997年の時点で)は、その後、二度と「…い、」とう表現を用いることはなかった。

 時を隔てて中上健次は、何度か大江健三郎への批評的アプローチを試みている。なかでも「ジン=イーヨーの変容―大江健三郎ノート」(『On the Borther オン・ザ・ボーダー』所収)は、中上にしか書けないユニークな大江論だった。そこで中上は、「双頭の赤ん坊として生まれ出た」ジンが、イーヨーに変成する過程の「暴力」に注目している。

 「純粋無垢の『小さな神』ジンは、暴力(無目的の方向性を持たぬ力)を内に抱えたイーヨーとなって今、在るのである。受苦のスティグマと暴力を抱えたイーヨー(≠ジン)、その二つの魂を抽出してみれば、二つが大きい物語(=小説)のとば口、神話の出口に立っているのが分かる」

 ここで中上が論じている「イーヨー連作」は、『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)にまとめられる。そこで大江はウィリアム・ブレイクを導きの糸に、再び宙返りを試みる。同じ年に中上は、『地の果て 至上の時』で渾身の宙返りを見せた。ともに自らの退路を断つような、クリティカルな作品である。

 その後、大江は『治療塔』(1990年)、『治療塔惑星』(1991年)を著すが、私は中期大江健三郎の代表作『洪水はわが魂に及び』(1973年)以後の作品世界の本質は、「治療文学」、あるいは「治療小説」にあったと思う。

 これは「癒やし」などという安易な概念ではない。精神医学者・中井久夫の『治療文化論』を踏まえてのことである。短篇『治療塔』(『僕が本当に若かった頃』所収)は、「新しい地球」という「ユートピア」と「ディストピア」が、「癒やし」への破壊的効果を伴って交差する作品だ。そこで示されるのは、安易な「救い主」による「救い」への拒否ではなかったか。中井久夫は、こう語っている。

 「一つの文化の下位文化としての治療文化とは、何を病気とし、誰を病人とし、誰を治療者とし、何を以て治療とし治癒とし、治療者―患者関係とはどういうものであるか。患者にたいして周囲の一般人はどういう態度をとれば是とされ、どういう態度をとれば非とされるか。その社会の中で患者はどういう位置をあたえられるか。患者あるいは病いの文化的ひいては宇宙論的意味はどのようにあたえられるか。あるいは治療はどこで行われるべきで、それを治療施設というならば、治療施設はどうあるべきで、どうあるべきでないか、などの(たば)である。いいかえれば、この種の無数のことがないまぜになって、一つの「治療文化」となる」(『治療文化論』)

 同じ核シェルターについて描きながら、安部公房の『方舟さくら丸』(1984年)より、『洪水はわが魂に及び』が文学的強度において格段に勝っているのは、この「治療」の概念にかかわっている。それについては、立花隆の「イーヨーと大江光の間」(『文學界』1994年12月号から3回連載)が参考になる。

 これは立花が光も暮らす東京・成城の大江宅に赴いての周到なインタビューに基づき、作家・大江健三郎と大江作品、そして作中人物「イーヨー」こと大江光の三者関係を徹底的に洗い出したものだ。

 大江はここで初めて光誕生の翌年、1964年の作品『空の怪人アグイー』および『個人的体験』当時の心の揺れ(「脳に障害がある赤ん坊を生かすべきか死なすべきかという問題」)を、作品に即して語っている。

 注目すべきは、光がイーヨー(家での愛称はプーちゃん)という幼児名を拒否し、「光さん」と呼ばれることを求める『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)の「転換点」(大江的な「宙返り」)としての意味を、浮き彫りにしたことである。

 ここで立花は、フィクションとノンフィクションとの微妙な関係に鋭く切り込み、光の発語の瞬間(北軽井沢での「クイナです」)から、「光はぼくの一部ではなくなって、ぼくとは別の一人のヒトになったわけです」という大江の言葉を引き出している。

 さらにその後、それまで「表現力を持たない光に変わって表現してやっている」という作家としての代行機能は、光の作曲した曲を聞き、「光の心の中にあんな深い悲しみが宿っていた」ことを知って、「ぼくがこの人を何かにつけて支配してきたことは間違いだった」ことに気づくのである。だが大江の「治療文学」は、そんなきれいごとですむはずもなかった。

 大江光は脳分離症によって、出生時に脳の一部が外部にはみ出している状態だった。この器質障害、具体的には左脳と右脳をつなぐ脳漿の欠損によって、彼は言語機能不全、運動性の障害、視覚障害、てんかんなど複数の障害を合わせ持ちながら、6歳の年にいきなり言葉を発し、18歳の年には作曲家として、表現行為を行うまでに成長した。

 大江健三郎の「治療文学」は、『個人的な体験』、『空の怪人アグイー』以降、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』(2013年)まで、大江光の出生と成長とともにあり続けた。この大江最後の小説で語り手は、知的障害を持つ息子への感情的失言をきっかけに家族内で完全に孤立、心を閉ざした息子を庇護する東京と故郷・四国の谷間の村を結ぶ「女同士の絆」の強化を結果的に促す。ここでの「治療」とは、息子の魂を傷つけた自らへの罰としての「治療」でもあったのだ。

 中上健次が読んだ大江の小説は、死の3年前の『人生の親戚』(1989年)が最後(『ダ・カーポ』の文芸時評で好意的に言及)だった。次回作は中上の死後に刊行された後期大江の柱となる、『燃えあがる緑の木』三部作(1993―1995年)である。その後読み返してはいないが、私はこの連作を読んだとき大江健三郎には、はっきりと中上の死が勘定に入っていることを直覚した。非−中心化された、地縁−血縁「共同体」の終焉をめぐっての、物語的想像力による作家としての落とし前に関してだ。

 死のちょうど3年前の夏、中上は東京・有楽町で「初期の大江健三郎―『飼育』を中心に」(『中上健次発言集成 6』所収)と題する講演を行っている。その冒頭で彼は、「大江さんが一作書くごとに、日本文学の新しい局面が現れる」と賛辞を送っている。いかにも中上らしいのは、『飼育』を絶賛に近いほど評価しながら、例えば山口昌男に学んだトリックスター理論などを使わずとも、大江が「もともとそういう具合に書いていた」ことを強調していることだ。かく言う中上にしても、ポスト・モダンの思潮に無縁でいられたわけではなかった。それが、遺作『異族』で見せた宙返りの中絶の本質的な意味である。

 大江健三郎と中上健次、二人の作家の「宙返り」は、あまりにも異質で非対称的だ。影響関係などとは無縁な、その「対称性の破れ」にこそ、現代日本文学の「可能性の中心」があったことを、私は毫も疑わない。

 「死と再生」といった共通する主題に関しても、両者は決定的にズレている。少なくとも中上は、そこに大江的「生まれ替わり」とはおよそ別の転生を描き出したのだ。その意味で紀州・熊野サーガは、大江の四国の谷間の村サーガの向こうを張る、反−「治療文学」だったと言えよう。「可能性の中心」とは、その視えない非対称性、言い換えるなら両者の内的「闘争」によって際立つもののことだ。

 先の講演における大江健三郎への中上健次の最後のオマージュは、次のようなものであった。

 「僕にとって、大江さんという作家は、あるときは非常に激しく対立したり、あるときは仲よくなったりという、そういう嫉妬の対象であり(笑)、尊敬する先輩であり、すごく影響を受けたし、あるいは、一遍どこかでぶん殴ってやろうと思っている作家だし、なくてはならない作家であり、もしこう言うことが許されるなら、じつに信頼できる、現代文学の敵に立ち向かう強力な同僚であると、十年遅れなんですが、あえてそう言いたいです。これで終わります」

 最後に改めて、「健次」と「健三郎」という固有名にこだわってみたい。健三郎は言わずと知れた、三男に与えられた名である。一方の中上は、「母方で言えば三男、父方で長男、戸籍上で長男、育った家庭では次男という複雑極まりない状態で、ケンジである」(「又三郎」、『風景の向こうへ』所収)。

 中上はこのエッセイで、「日本の物語、民話、神話には太郎の力、次郎の力、三郎の力と区別出来るほど、それぞれが主人公になった場合に役割の分担がある」とし、宮沢賢治の『風の又三郎』が、二郎が語る三郎の物語だと明快に語っている。

 二親を同じくする兄弟姉妹を持たず、この抽象性の渦の中で育った中上健次にとって、大江健三郎の文学は、四国・愛媛県の周縁に生まれた戦後民主主義教育
(*)のエリート、「(健)三郎の力」が生み出した、「三郎の物語」だったに違いない。だがしかし、中上が反復的に語った物語論に即して言うなら、大江健三郎が生涯をかけて紡いだのは、光誕生の遙か以前、少年の頃に父を亡くし、打ち棄てられ、世界のなかに投げ出された「みなし児」の「治療文学」だったのだ。

 中上健次の実父・鈴木留造は、彼の実家と目と鼻の先の距離に、中上の死後も数年生きていた。ここでも、「健次」と「健三郎」の関係は非対称的だ。『地の果て 至上の時』における秋幸の未遂に終わった「父殺し」と、後期大江の最高傑作『水死』に描かれた父の死のコントラストが、その最終的な証左である。

 そして私はいま、宙返りの度に主題的に回帰する「治療文学」が、ノーベル文学賞受賞を挟んで、46歳で急逝した中上の死後約30年も持続したことを、掛け値なしに一つの「奇蹟」だったと痛感する。
   


(*) ^ 中上健次が日本の戦後民主主義教育と無縁だったわけではない。小学生の頃、野田青年館(現・新宮市役所野田隣保館)での「子供会」活動に参加した中上は、中学に入ると合唱部に所属、音楽教師からラテン語のミサ曲を習い、また作文を読んで真っ先に中上の文才を発掘した女教師などから、最良の「民主教育」を受けていた。熊野大学創設に当たって、何の衒いもなく「真の人間主義」を掲げた原点にあったその教育効果は計り知れず、「部落青年文化会」、「隈ノ會」、「熊野大学」へと継承された。

 (2023年3月16日)

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