『紀州 木の国・根の国物語』(1978年)
「伊勢」の章より:伊勢神宮を訪れ「神道」と「天皇」について考える中上。
「この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった」
「私が言う右翼の感性は、日本的自然の粋である天皇こそが差別者であり同時に披差別者だということを知った者の言葉の働きである」
「私と三島由紀夫との違いは、言葉にして「天皇」と言わぬことである」
伊勢神宮の神宮文庫の図書目録を見て中上は圧倒される。
「天皇がコトノハ、文字という言葉によってこの国を治めている、と思ったのだった」
「ドキュメント 火の文学」(座談会、1985年2月、『火の文学』所収)
「・・・天皇というのは文化の象徴であるわけでしょう。文化のシンボルなんだから、文化を云々する、言葉とそのものの意味みたいなものを問うていくと、どうしても天皇というものが出てくるのは当然のことでしょうね。そうすると、そのことに関して自分の文学とどう対応するのかということは、この国で言葉を書く限り、ずうっとテーマとして在り続けると思うんですよねそれをどんなふうにも無視できないという状態でしょう。三島由紀夫も、天皇について考えつめた。考えつめて、ああいう形をとったということですよね。だから、ぼくは昭和四十五年の三島由紀夫のことに関して二つあるんですよね。つまり、文学者としての自決というか自裁というそのものと、それから彼の文化防衛論なんかに現れている、文化が政治と完全にくっついているような、そういう形の非常に激しい行為と、その二つが衝撃として今もある、ということですよね。この衝撃を解いていくのは、つまり、三島由紀夫というのは何だったのか? という問いと、三島由紀夫にとって天皇だとか政治だとか非常にアクティブな文学とかそういうものは何だったのか? という問いの二つを解いていかなくちゃいかん。だから三島由紀夫の死ではなくて、つまり憤死とか諫死とかいうもの、それがそういう形であり続けるということですね」
「三島由紀夫をめぐって」(講演、1985年11月パリ、高等師範学校(エコール・ノルマル・シユペリウール)、『現代小説の方法』所収)
日本の現代作家でシンパシーを感じるのは大江健三郎でも安部公房でもなく三島だと発言
近世以降、日本にもたらされた「ヨーロッパという病」(キリスト教とともに)、「アメリカという病」(戦後に及ぶ市場消費経済)に対して、第三の「アジアという病」を指摘。 三島をその「アジア」、マルクスの定義した「停滞」の象徴としてでなく、境界・ボーダーを超えた開かれた可能性としてのアジアと切り結ぶ作家として再発見。 ただしそこには、隠蔽された日本の二つのタブー(「天皇」と「部落」)が介在していた。
「三島の「アジア」っていうのは、二つのアウトカーストが隠蔽された、その事実がもたらす愉楽のことだったんじゃないか」
彼の語る天皇制を、「まともに、ストレートに、単純に真に受けちゃいかんと思う」
「愛の作家、三島由紀夫」
『仮面の告白』から:5歳の「私」は地下足袋に紺の股引を穿いた「汚穢屋」(糞尿汲取人)の若者に、「或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声」(三島)を感受する。
「糞尿は大地の象徴」、「私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛であったに相違ない」
中上はそれをボーダーを超えた「愛」(「彼」になりたい「私」)と捉える。
おぞましく、排除されたもの(=アブジェクトabject)への性的嗜好
「三島由紀夫の『復活』」(坂本龍一との対談、『文學界』1986年2月号、『中上健次発言集成2』所収)
再びボーダーの問題を三島に当てはめ
「ボーダーをジェンダーとして捉えたら、ジェンダーとの戯れ、ボーダーとの戯れというのは、これはホモセクシャルな意味だと思う」 中上は1986年6月、エッセイ集『オン・ザ・ボーダー』をトレヴィルから刊行する。
1988年10月にはBBC他ヨーロッパ各国で放映されたテレビ・ドキュメンタリー『ライターズ・オン・ザ・ボーダー』(日本未公開)の取材撮影に応じる。
「転生・物語・天皇−三島由紀夫をめぐって」(四方田犬彦との対談、『國文学』1986年7月号、『中上健次発言集成2』所収)
三島を、あるいは三島にとっての「天皇(制)」を北方的(万世一系に繋がる)に捕らえるのではなく、「南方的な想像力をもとに捕らえ直す」。『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』(紀元前に書かれたサンスクリット語の長篇叙事詩)を媒介に。
カースト外の「天皇」と「部落」と切り離せない作家・三島由紀夫。
中上は「昭和」の終焉に際して、日本における二つのアウト・カーストに言及した「日本の二つの外部」というエッセイを書く。 この対談で中上は、『千年の愉楽』の一章「天人五衰」(中本康夫=オリエントの康が主人公)が三島の遺作『豊饒の海』最終第4巻のタイトルのいただきであることを認める。
初出は『文藝』1981年(昭和56)2月号。中上はここで不意にポスト昭和の時代について語り出す。オリエントの康が集団で新天地に行こうとした事についての件。
「これは百年も千年も生きつづけたオリュウノオバだけにしか分かっていない事で、半蔵の子が昭和の天皇が崩御した同じ日に癌で死にさらに半蔵の子の竹信の子の光輝が昭和の次の年号の五年目に空から降って来たきらきら光る飛行機の破片で胸を突き刺され死ぬのだが、そんな過去も未来も含めて若死にしたり不慮の死を死ぬ者らを集めて、蓮如上人の白骨の御文章の中にあるような船に乗せようとしたのだろうか」
この対談の後半で中上は、「天皇が死んだときに挽歌をどんなふうに歌うか」について問題提起、「僕は、もし天皇が崩御したら挽歌を歌うでしょう。何かやりますよ、日本語を使う人間として」と語っている。
「今、三島由紀夫を語る」(宮本輝との対談、『波』1987年11月号、『中上健次未収録対論集成』所収)
三島の短篇小説に関し:「橋づくし」のよさを認めつつ三島本来のものとして「剣」「憂国」「英霊の声」「孔雀」「蘭陵王」の5篇を挙げる。
「三島由紀夫の短篇」(エッセイ、『群像日本の作家18 三島由紀夫』1990年10月小学館の序文、中上自身によるアンソロジーとして編まれた。『中上健次全集15』所収)
中上によって選ばれた三島の短篇小説は、「煙草」「サーカス」「卵」「新聞紙」「施餓鬼舟」「百万円煎餅」「荒野より」の7篇。 エッセイでは「荒野より」に絞って語られる。
「三島由紀夫の短編小説の中でも、「荒野より」は独特な作品である。私小説をまったく書かなかったし、また私小説を拒絶する文学観を堅持していたといえる三島由紀夫にとって、父、母、妻の登場するこの小説は、不思議な感触を抱かせる。一見すれば私小説風な仕立てである。梅雨時のある日の早朝、寝いっていた作家の家に男が闖入する。物盗りではない。というのも、闖入する端から男は家人に目撃されている」
男は「本当のことを話して下さい」と言う。三島と名づけられた〈私〉は、「自分の影がそこに立っているような気がしたのである」(中上)。
三島由紀夫は、「言葉を換えれば、私は私である、という考えでなく、私は他者であるという考えを選んだ作家なのである」「私と他者を楽々と往還する魔術のひとつなのである。その魔術の見事さには目を見張るしかない」。
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