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設立者・中上健次の言葉
熊野大学の設立者・中上健次氏の著述・発言その他の中から「熊野大学」や「隈ノ會」に関するもの、
主催イベントについて触れた発言を集めました。

中上氏が託した熊野大学の思想を読み取っていただければ幸いです。
集英社の全集や著作集に未収録のものもあります。




檄 文
 もうがまんならないところに来ているのが、熊野の人間の本音ではあるまいか。黒潮の波の豊かさに魅かれ、この熊野の地に遠つ祖が拠を定めたのは何千年前か。神を畏れ、仏をうやまい、日々清く生きてきた。それがこの有様だ。

 汽車がこの間全通したと思ったら、いつの間にか、本数が減った。熊野に<近代>は一番遅くやって来て、一番早く去っていくという事なのか。それなら<近代>が打ち壊した山を返せ。原っぱを返せ。熊野川のあの川原の黒い砂利を返せ。人の情をかえせ。魂をかえせ。

 熊野。ここで子宮を蹴って日を浴びた俺も四十。空念仏は要らない。ここが豊かで魂の安らぎと充溢の場所とする為なら立つ。本宮、那智、速玉、三山の僧(氏子)兵とも、水軍(海賊)ともなって、山、海をゆき、熊野を害する者(物)らと戦おう。

【解説】
集英社『中上健次全集第15巻』、恒文社21『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』に収録。隈ノ會結成イベント発表の際、「紀南新聞」(1987年8月8日号)「新紀日報」などの地方誌を中心に掲載された。この文章は他に結成の経過や意図を記した辻本雄一氏の筆による趣意書(発表時は無記名)、田村さと子氏と尾崎進氏による檄文が付く。イベント当日のパンフレットにもこれらの文が使われている。

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熊野で「魂」を語る    ― 中上健次氏の講演から ―
■ニューヨークで語り合う
 「腹立たしい今の熊野」


 中上健次です。十五分の予定で話をするんですけれどもぼく、今年(一九八七年)の正月に、ニューヨークで、ニューヨークで発行している日本人向けの新聞があるんです。OCSニュースという、そういう新聞なんです。そこで、偶々(たまたま)ニューヨークで、本当に偶然に出くわした、ニューヨークのロックフェラーセンタービルの中にある、そこで一番大きい銀行ですけれども、東京銀行というところで、そこで支店長をしている、河村という、ぼくたちの同級生なんですけれどもそれと出くわして、OCSニュースという所が、そういう作家と銀行家がニューヨークで出くわすということが、凄く面白いということで、対談を組んだんですね。その対談の中で、それは紀南新聞に転載になった(※1)と思いますから、皆さん、読んでいらっしやると思うんだけど、その対談の中で、互いに、こう自分達の、血の中に入っている、どうしようもない、こうどうしようもない「熊野性」といいますかね、どうしようもない、きちっとこう、何か物を徹底して考え詰める。そういうことを、身の不運だという話で、慰め合ったことがあるんですけれこも。これはそういうこう、自分達が外で自分達は熊野の中から出てきたんだ、こういうニューヨークという街で、第一線で活躍しているビジネスマンと、それからニューヨークという街で、アメリカ人相手に英語を話して、それで文学を切り結んでるってこと、その人間を、自分達は熊野から来たんだ、熊野の地を確認してるんだけど、じゃあ熊野をふり返ってみると、熊野は何なのか、今の熊野は何なのか、というと本当にぼーっとぼやけてしまってるんです。そのことを、ぼくも河村も、非常に不愉快なこととして、一体熊野、何してるんだ、そういう腹立たしさで、熊野を想い出しましたり最後は、もう、熊野の悪□になって、たぶんそれはカットしてしまったんですけれども。

 ぼく、そういう熊野に対して、今回、たまたま”瓢箪から駒”になって、ぼくらの仲間と洒を飲んでいるときに、いっちょうやっぱり、ここで活(かつ)を入れて、熊野の人間に対しては、本当に何かやろうじゃないか、ということを提案したわけなんです。ということで、この隅ノ會というものができたんです。今日がこの発会式になるわけなんですけれども。

■世界で一番大事な場所
 魂に昴ぶりを与える地


 ぼくは、その熊野という揚所を、世界の中で、一等大事な場所なんじゃないか、と思うわけです。決して、この日本の中で、熊野が一等大事だというんじゃなくて、世界の中で、世界に対して、メッセージを唯一発することができる場所のひとつではないか、という気がするわけです。ということは、皆さん、ぼくの考えていることというのは、例えば、熊野の意味ということにもつながると思うんですよね。熊野っていうのは、東京、あるいは、昔で言うと、どう言うんですかね、京都っていうのがあります、権力の中心地。その京都の後ろ側です。われわれ紀伊半島の、この一番端の所に、熊野って、できてるんです。もちろん、これは新宮だけを指すんじゃなくて、熊野っていうのは、熊野エリアっていうのは、那智が入り、あるいは古座も入ると思います。ずっーと果無(はてなし)の山の方まで入ると思います。こっち側でいうと、ひょっとすると松阪のあたりまでかも知れない。そういう、とっても大事な所、これをこう例えば、中世の頃に遡(さかのぼ)りますと、つまり一種のメッカ、イスラム教でいうとメッカみたいな場所、聖なる土地だったんです。熊野の中に、何かがある。この熊野は、信仰の中心地みたいな形だったんです。それと、中世の頃だったら、水軍の拠点みたいな所だったんです。あるいは、この、熊野は山賊の拠点みたいな所だったんです。だから、中世の頃で言うと、例えば源平の戦いのときに、熊野の人間がどっちにつくかで、勝敗が決まってしまう、実際に決まってしまったわけです。あの時にもし熊野が平家の方についていると、日本の歴史は相当に違ったはずです。そこまで、実に力を持ってたわけです。そういう熊野、とっても大事な所そういう所なんだけど、今となってみれば、実際その軍隊という、あるいはその軍隊といわな<ても、人と人との交流という、それが完全に近代から取り残されてしまった。ただ一つ唯一残っている、日本のチベットみたいな形で、熊野といわれているわけですけれども、ぼくは、その、一番遅れた、日本のチベットみたいな状態になってる熊野というのは、本当は、一等強いメッセージを外に向かって、あるいは世界に向かって、発することかできる、唯一の場所ではないか、と思うんです。ということは、一番単純に言いますと、熊野にまだ残っているのは、ここはその、魂の、魂がもういっぺん浄化されて魂に昂(たか)ぶりを与える所、魂にバイブレイションを与える所、魂をリフレッシュする所、そういう場所だと思うんです。で、そのことが一番大事なんですよね。本当いうと。

■空港や道路が目的ではない
 良く生きることをやりたい


 われわれ、例えば高速道路をつけようとしている、あるいは空港を設けようという、それは政治や経済のスローガンですよ。ところが、政治というか皆さん方は、高速道路をつけることが自己目的、目的化してしまう。あるいは空港をつけることが、目的である、本当は、そんなことは目的でも何でもないんです。高速道路をつけて、人間は、例えば経済的に豊かになりたい豊かになるんだけど、豊かになって、それで何をするのかというと、本当は、本当のことっていうと、魂が、生きて良かった、われわれ人生に生を享(う)けて良かった、この陽の光を浴びて良かった、自分達の子供が良く生きてくれる、そのことを、本当はやりたいわけなんです。それが目的なんです。魂の昂(たか)ぶり、魂がこう、本当にこう浄(きよ)らかになって、そうすることが本当の目的なんです。決して高速道路をつけるというのは、その高速道路によって、そういうものに至ることができるんじゃないかという、ところが、いまの政治や経済の人々は高速道迂路がくることによって、お金持ちになる、金儲(もう)けできるんじゃないか、せいぜいその位で止まってしまうんです。

 だから、佐藤春夫が、佐藤春夫という、ぼ<からみたら大先輩の物凄い大事な、日本の詩人であり、作家であった人がいるんです。すでにお分りだと思うんですが、佐藤春夫さんが、あの「大逆事件」(※2)のときに、詩(うた)を詠(よ)んだんです。「愚者の死」っていう詩があるんですよね。その中で、この新宮という町を、商人ばっかりの町だっていう。つまり絶望して言ってるんですよね。ぽくも、そういうことを言いたい。いま、皆、本当のことを忘れている。熊野という、とっても大事な所に生きているのに、本当のことを忘れて、お金、金勘定(かんじょう)ぱっかりしてるんじゃないか。そんなことを、言いたいんですよ、ぼくは。そうじゃない。

■ここで生まれた
 俺の方が凄いんだ


 例えば、ぽくら、こうニューヨークヘ行ったり、あるいは、田村さと子さん(※3)がラテン・アメリカヘ行ったりする。そこで、そこで一所懸命頑張(がんば)れるのはこの熊野という場所、ここで血を享(う)けた、この血っていうのは、そういう金勘定の場所じゃなくて、本当に魂を高揚(こうよう)する場所です。魂を、非常にスピリチュアルな場所だった。そこで生まれて、そこで陽の光を浴びて、そこで波の音を聴いてそこで風を受けて、そうして育ってきて、そういう感性を持っているんだと、そのことが、誰と、どこで生まれた奴(やつ)と、実は勝負してみても、喧嘩(けんか)してみても、ビジネスの闘いやってみても、あるいは、文学を競い合ってみても、いっこも引かない、ひとつもその劣等感みたいなものを持たない。むしろ、そこで生まれた俺の方が凄いんだという気持ちになる、その熊野なんです。その熊野が、ぼくは、いま、皆さん方、ここに住んでるのに気づいてないっていうこと。それを、ぼく、「ばちきったろかあー」ということで、皆さまとともに言いたいんです。こんなにいい場所に住んでるのに、こんなに大事な場所に住んでるのに、皆さま方それを、例えば新宮の人、あるいは勝浦の人、本宮の人、あるいは木本の人、そういう人達が、皆、こういういい場所に住んでいるのに、これを金勘定だけに捉(とら)えてしまっている。ぼくは、違うと思うんですね。これは、完全に間違ってると思うんです。

■世界作家会議をやろう
 「魂の問題」を話そう


 例えば、ぼくは、こういうここで隈ノ會が発会したあと色んなことを提案したい。例えば、ここで世界作家会議をやろうじゃないか。世界からいま文学の第一線にいて、世界の文学を担っている作家達を呼んできて、熊野で「魂の問題」を話そうじゃないか。例えば「革命の問題」を話そうじゃないか。「革命」っていうのは、単純に左翼が政権とるとか、そういうことじゃなくて、本当に新しくものごとを考えていくという、そういう問題を話そうじゃないか。あるいは、もちろん社会問題でもいいですし。そういう場所なんです。それができる唯一の場所なんです。東京で、世界作家会議をよくやります。東京のヒルトンホテルとか、あるいは京王プラザとか、色んな場所でやります。本当にそこが受け皿(ざら)かどうか、違います。それは全然違う。そこは、受け皿でも何でもない。単純に、ホテルとして便利なだけですよ。トイレは水洗、あるいはこう、ロックをすれば、ガチャッと締まる。せいぜい、そんな程度ですよ。あとから、下へ行ったら、コーヒーか喫(の)める。せいぜい、それぐらいですよ。要するに、作家達が求めてやまない、魂を、魂の受け皿っていう、そんなもん無いんですよ、東京には。唯一、ここですよ。そのことを、分ってほしい。ぼくは、これから、この会が発会したら、世界作家会議をしたい。あるいは、ぽくは戯曲も書くし、この間、本宮の大斎原(おおゆのはら)という所で、ぽくの作品のひとつである、「かなかぬち」っていうのを、上演さしてもらったんだけど(※4)、ああいう、ぼくの芝居(しばい)も含めて、あるいは日本で、もうちょっと、あんまり居ないんだけど、まあ一人や二人面白い劇作家居るとしたら、そいつも呼んで、あるいはアメリカから面白い劇作家呼んで、劇団呼んで、フランスからも呼んで、そういう世界演劇祭みたいな形、それを、皆で、やってみたい。そういう考え、持っています。

(注)

 1 本紙昭和六十二年一月二十一日号に「40歳同級生が故郷・新宮を語り合う」と題して、河村憲一氏との対談を掲載。
 2 一九一〇(明治四十三)年幸徳秋水らが、天皇暗殺を陰謀したとして、逮捕処刑された事件。十二名の無期刑者を出したが、この熊野の地からも六名の犠牲者を出した。現在の研究では、すべての者について、冤罪(えんざい)であった旨が、立証されている。新宮の医師、大石誠之助も刑死した一人であるが、父の友人で顔見知りであった若き佐藤春夫は、その衝撃を「愚者の死」に託して発表した。その中で、「うべさかしかる商人(あきんど)の町は歎かん」と、新宮町民を皮肉っている。
 3 詩人。新宮出身。中上健次と同級。「イベリアの秋」で第三回現代詩女流賞受賞。ラテンアメリカ文学専攻。「ラテンアメリカ現代詩集」の編訳。エッセイ集「南へ」など。最近、チリの亡命映画監督ミゲル・リティンの来日に際し案内役をつとめた。
 4 一九八六年七月十八日〜二十日、東京新宿のはみだし劇場が、外波山文明の演出、出演で「かなかぬち──ちちのみの父はいまさず──」を公演した。NHK教育テレビは、ETV8で「隠図の野外劇 かなかぬち」を九月二日に放映した。

【解説】
「紀南新聞」昭和63年1月10日号に掲載。全集、著作集未収。隈ノ會結成イベントでの講演を辻本雄一氏が筆録し、注を加えた(見出しは新聞社による)。紙面には次の紹介文がある。「熊野文化の再興を目指す「隈ノ會」(荒尾 まこと(うかんむりに是)会長、会員六十人)の発足記念イベントで昨年夏、現代文学の旗手、中上健次氏=新宮高校出身=が、熊野の価値について基調講演を行った。氏は、世界文学のレベルで通用する数少ない日本の作家で、世界中を駆け巡って活躍しているが、その視点は絶えず熊野に置いている。新春特別企画として、この時の講演内容を掲載することにした。」

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熊野大学構想を語る
自分が勉強になる、俺自身が話を聞いてみたいと思っている人を、熊野の地に連れてきたい。俺と一緒に長期間にわたって物を考えてくれる仲間が五十人いれば、熊野大学というものができる。
 すぐに村おこしに役立つと考えたり、金になると思ったりするのはダメで、長期間にわたってじっくり物事を考えていく人の集まりにしたい。「この組織を利用しても何にもならん」という人の集まりが、かえってよい。そうすることで熊野の文化が見えてくると思う。

 「熊野学」というものがあるんだ。角川源義(国文学者)も熊野に関する事を語っているが、物語は熊野なしには考えられないのだ。熊野の奥底にあるものを探りたい。「熊野」は二十世紀最後の思想潮流になると思っている。

 熊野には世界を救う思想がある。人が人として十分に生きるルネッサンスが、熊野にある。抑圧や差別がなく、内側から輝いているものが熊野にある。そういう力が熊野にはあるんだ。

 弱い人間が内側から力を出す、それが熊野だ。じわっと感じてはいるが、俺の文学の目的として、それを探りたいと思っている。一番大切な場所として、この地をとらえている。

 アパルトヘイトされている南アフリカから人を呼んで語り合える、そういう土地が熊野だ。人間にとって一番核になることは、「生きるとは何か、死ぬとは何か」を考えることで、それが熊野の役目だと思う。

 排除をせず、共に、もっと高い所から見つめようと、そう呼びかけ、導けるセミナーをやったらどうか。
 「弱いものこそ輝け!」「みんなこそ美しい」と唱えたい。
 御灯祭りの二月か、夏かに具体的なアクションを起こしたい。

【解説】
第三文明社『中上健次発言集成5談話/インタビュー』に収録。初出は紀南新聞1988年11月18日。最後の一行を削除したものが、熊野大学機関誌「熊野回廊」創刊号(1990年7月)に収録されている。

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ただ一点、熊野
 今年の正月から故郷の熊野新宮に、一月に一度戻る事になった。「熊野大学」というものを創ったからである。大学と言っても、建物がない。生徒もなければ先生もない。もちろん入学試験も卒業試験もレポートもない。何もないところで、考えるのである。熊野とは何か? 熊野の思想とは何か?

 だいたい月初めに、私は私なりの熊野詣の客となるのだ。それで、このところめっきり忙しい。一日が四十八時間あればよいのに、と思う。

 この四月は殺人的だった。二年間「朝日ジャーナル」誌上に連載した長篇小説「奇蹟」の上梓をぎりぎりに控え、一日の早朝羽田から飛行機で白浜に飛び、白浜から列車で新宮に入る。四月一日は「熊野大学」四回目の開催日である。

「準備講座俳句」と銘うち、講師に結社「運河」の俳人茨木和生氏をむかえ、昼に速玉大社に集合して吟行を始めているので、東京からどんなに息せき切ってかけつけても私は遅刻である。二時から句会を始める。投句をしないが、選はする。終了が四時。

 七時から速玉大社の別棟で講座が始まる。茨木和生氏が俳句と熊野について熱っぽく語り、続けて正月から、一章ずつ読みはじめている「山本健吉『いのちとかたち』をよむ」の四回目の解読を私がやる。全二十四回の四回目である。聴講は五十人ほどの老若男女。博学の山本健吉氏の論を読み解こうというのだから四苦八苦である。

 終了してほっとして、「隈ノ會」と名のる同級生らと、熊野の復活をどう果たそうか議論しながら酒。本屋の若旦那を会長とする面々、皆、弁慶の末裔さながらである。伊勢、何ほどのものぞ。「熊野大学」で人権問題をやろうではないか。アパルトヘイトをはっきり否定出来るのは熊野だけではないか? 教育はどうか? 人を教えるとは何か? 学ぷとは何か? 学校は必要か? 子供たちは学校にアパルトヘイトされているのではないか? 夜はすぐ更け、朝になる。  実家にも戻らず、市内のビジネスホテルでひと眠りして、隈ノ會の面々と田辺へ車で走る。リゾートとか、マリーナ・シティとかの内容空疎な乱開発に今、悲鳴を上げている紀伊半島の山河につき動かされて、田辺で横の連帯をつくる為の会に出席するのである。会の名称は「紀伊半島を愛する会」。

 かようなように、目をまわす暇もなく動きつづけているが、作家として考えれば、一点にしか集中していない。一点とは、つまり熊野である。私の文学。現在、「蘭の崇高」という書き下ろし中篇を書いている。これもまた熊野である。

【解説】
恒文社21『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』に収録(誤字脱字を改めました)。初出は「新刊ニュース」(1989年6月号)に掲載。中上健次氏は、熊野大学と「紀伊半島を愛する会」や南方熊楠を再発見しようとする人々と連携を取り、熊野の再興を考える人達のネットワーク化を構想していました。

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文芸時評第22回
 日本の中で文学をやっていると露ほども疑わない事だが、外の世界に出むくと、文学、いや紙に印刷された小説が日本ではやたら大事にされ、いばりくさっていると気づく。印刷=複製の虎の威を、小説が詩が借りているという事になろう。小説の発生、詩の原初を考えれば、私たちは無残な時代を生きているわけである。この国における印刷=複製の小説の暴威は、おそらく中国、韓国渡来の儒教の影響であろ
う。文人、つまり小説家や詩人は肉体をかくす事を美徳としたのである。声を喪失する事を競ったのである。これは東アジア一帯の小説家や詩人の宿痾であろう。詩人がくり返し朗読を試みる事、小説家がパフォーマンスに加わる事は、言語の現在を考えればごく自然な健康な欲求である。

 八月十二日熊野本宮でのパフォーマンスは、小説家である私には一冊の長篇小説を上梓する事と同じ事なのである。従って事前に何のインフォメーションもない観客(読者)が、限定されている、という点を考えれば、限定出版の形だと言われようが、印刷=複製を喰い破るという意図を計れば、熊野本宮の聖地の闇に書いた新形式の長篇小説と考えてもらって一向にかまわない。とりあえず事態についてのべる。

 場所は熊野本宮の大斎原である。ここはかつて中世に爆発的な熊野詣ブームの中心であった本宮大社のあった場所である。ちょうど百年前に大雨で崖くずれが起こり、川をせきとめ、大洪水となり、本宮大社が流され、大社が小高い山の上に移った跡地である。八月十二日、まさに百年前のこの日である。大洪水になった崖は、被差別者らの住む崖であった。

 大斎原をパフォーマンスの場所に定めたのは、劇場としての効果を求めての事だし、八月十二日のその日は偶然の結果だった。しかしあいさつに出向いた本宮大社で、宮司からその場所のその日の意味をうかがって驚きにうたれた。神威が小説家をつき動かしている、とおっしゃる宮司の言葉に、私もうなずくしかなかった。

 当日、二千人の人々が集った。東京からバスを仕立てて来た人もいたが、九割までは本宮の老若男女である。薄暮が始まるか始まらないかの時間を待って、歌、声の話が始まった。都はるみ、中村一好、それに私の三人が、美空ひばりの歌は何であったか、本当の歌は何であるのか、問うのである。都はるみは大胆に「兄弟船」「恋は神代の昔から」「アラ見てたのね」三曲を歌った。私には美空ひばりの死にうかれ、歌の死滅に喜々とする平成元年の日本に対する熊野からの痛烈な批判の矢と見えた。言わせてもらえば、日本人である限り、熊野の聖地で歌をうたった都はるみに、一人一人が答えるべきである。尊い御方であろうと街中の乞食であろうと例外はない。文学上の文脈で言えぽ、都はるみはバフォーマンスの意味を問うたのである。

 その問は、続いて始まった石橋幸のパフォーマンスではより鮮明になる。石橋幸は金具をたたきながら、マイクも使わず、歌いながら聖地を廻る。ピアニストの秦宜子は、聖域に張りめぐらしたピアノ線をたたきこすりヴァイブレイションをたてた。問うているのは声であり音である。

 聖地で響いた声と音の筋はこうである。神隠しにあってロシアの地に行ったが、帰路がわからず熊野の聖地に迷い込んだ。ロシアの歌をロシア語で歌い、あまりに深くロシアの人と土地に共振れする。ヤタガラスが顕れ、ついに熊野の神が心を動かし、熊野水軍の軍船をつかわし、帰路を誤たぬように送りとどける。

 ヤタガラスも熊野水軍も、本職の鈴木秀二がつくったバス一台ほどのねぶただった。ねぶたにろうそくの火が入り、火の船、光の船となって空に舞い、空中を飛んで、歌い倒れた石橋幸のそばに降り、救いあげる。二千人の観客(読者)がどよめくのは当然である。というのも、熊野の聖地で、作・演出の私が、言語の意味をまっすぐに問うているのである。

【解説】
集英社『中上健次全集第15巻』に収録。雑誌「ダカーポ」に連載された文芸時評の第22回(89年9月 日号)。語られているのは、同年8月に催された「KUMANO Cafe」の様子。

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真の人間主義
 世界は危機に遭遇している。私たちの総てが破滅に向かっている。地球が壊滅しかかっている。この危機や破滅や壊滅の中に私たち、人間、共に生きてきた愛する動物、植物、この風、この空、土、水、光が永久に閉ざされ続けるのか。何かが大きく間違っていたのだ。近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信がこの大きな錯誤を導いたのだ。

 私たちはここに霊地熊野から真の人間主義を提唱する。人間は裸で母の体内から生れた。純正の空気と水と、母の乳で育てられた。今一度戻ろう、母の元へ。生れたままの無垢な姿で。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。 霊地熊野は真の人間を生み、育て、慈しみを与えてくれる所である。熊野の光。熊野の水。熊野の風。岩に耳よせ声を聞こう。たぶの木のそよぎの語る往古の物語を聞こう。

 そこに熊野大学が誕生する。

【解説】
集英社『中上健次全集第15巻』、恒文社21『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』に収録。熊野大学開講式に寄せた文。全集解題には「そのパンフレットなどに掲載されたと思われる」とあるが、実際には一枚のコピー紙、後にあちこちに転載されました。開講式挨拶の中で、中上健次さんが読み上げた。

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熊野大学讃
 建物もなければ入試もなく、卒業は死ぬ時。
 ひとりひとりの人間が、自分の魂を解き放ち、
 あらゆる人が対等の立場で、自由に交信するところ、
 さまざまな人が集まり、それぞれのやりかたで、
 「熊野学」と取り組む。

 たとえば、熊野水軍。
 熊野の歴史に実在した、海賊であり軍隊であったもの。
 闇の海を開き、人と文化を運んだもの。
 熊野とじかにつながっていた、外国。貿易。交通。
 今は歴史に封印されてはいるが、
 きっと解放できると信じられるもの。

 われわれの、
 全ての人間の、魂の産み出したもの。
 これを携え、閉ざされた歴史を開き、
 広く世界に船出して行くところ。
 熊野大学。
 その出で立ちの場所。

【解説】
太田出版『中上健次と熊野』に収録。熊野大学機関誌「熊野回廊」創刊号(1990年7月)が初出。開講式において、熊野大学学友会山本千賀子理事長が読み上げた。

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「熊野大学」事務所開きの挨拶
 「熊野大学」の開校(講)にあたりまして、西村記念館をお借りしまして、「熊野大学」の事務所を開きたい、と思っております。

 この西村記念館、つまり西村伊作さんのお宅だったのですけど、ここに、新宮の、あるいはこの紀南地方の芸術家達が、あるいは自由な考えを持った思想家達が集まって、まさにここに集まって、何十年ぐらい、百年ぐらい前になるんですかね、酒を飲んで、音楽を聴いて、芸術のこと、あるいはこの社会のことを話し合ったと思うんです。

 ここに来まして感じることほ、大正期の、非常に尖鋭的なリベラリズム、自由主義というんですかね、あるいは自由平等主義というような、僕はおそらく当時の、その、明治維新から引き継いだ、中心的な思想だと思うんです。その明治維新というのはどういうとこから来たかと言うと、世界史の潮流の中で、フランス革命なんかに、同じような波動を受けて、明治の、日本の変革が興ったと思うんです。

 ここで集まった過去の芸術家達は、この、回りにあるアジア的な環境、アジア的な社会体系、形態というものに対して、ある部分で共鳴しながら苛立っていた。おそらくこれは、僕らが今ここに来て、「熊野大学」を開校(講)するという時にも、同じような感情が内々にあると思うんですよね。

 我々は本当の人間になりたい、本当の自由で平等で、人を愛することができる、物を愛することができる、そういう人間でありたいと思うんだけれども、回りを取り巻くアジア的環境というものに足をとられて、ある時は長いものに巻かれるというふうになってしまったり、ある時は横暴な権力を許してしまったり、ある時は自分の芸術の志を曲げてしまうっていう、そういうことがおこったりする。

 だけど我々はもう少し見えていると思うんですよね。もう少し見えてるというか、社会がどんどん変化していまして、大正期と違って、アジアの中にも、いくつも見逃してはならない文化の、一種の豊饒な泉のようなものがあるということを、気付いていると思うんです。

 そのことを、僕達は先輩の、大先輩達のやったこと、考えたこと、あるいは、これからこういうことをしたいと夢に見たことを踏まえまして、新たにこの熊野の地で、世界に向かって、思想、芸術、あるいは人間の根本的なありよう、それを、新しく問うて行きたいと思います。

 どうか、皆さん。これは開かれた大学です。建物も入試もあるいは、入学金もいりません。開かれた大学です。一緒に、共に、誰が上、誰が下、誰が先生、誰が生徒っていうのではなくて、共に同じ次元に立つ人間として、その人間を目指して一緒に歩いてください。

 終ります。

【解説】
太田出版『中上健次と熊野』に収録。一九九〇年六月三日、新宮市西村記念館にて行われた開校式でのあいさつ。初出は熊野大学機関誌「熊野回廊」創刊号(1990年7月)に収録されている。

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「熊野大学」開講式の挨拶
 ちょっと、こういった、儀式みたいなものは堅苦しくなってしまうので、あの、それ自体が熊野大学の精神に反します。熊野大学は、それこそ、人間が解放されるっていうことが非常にこう、大目標にもなっているので、どうか、その、リラックスなさってください。 なんて言いますかゆっくり時間をかけて本当の物事を見つめ、物、人、天を、一切合切を敬う、そういった考えを打ち出して行こうそういう本当のことに、もう一辺戻ってみようじゃないか、というのが熊野大学の目指すところなんです。それが、この熊野の土地でこそ、この土地でこそ、できるんだという認識に基づきます。それは大阪ではない、東京ではない、あるいは北海道でもない。この熊野でやることなんだ。ということはですね、この熊野は、やっぱり、非常に特殊な場所です。日本の歴史を、こう、振り返ってみますと、熊野は日本の歴史の神話の時代から登場します。

 みなさん、その、例えばその、ひとつのもの、えー、お燈祭、あるいはその、この速玉大社にしてもいいです。その、この、この場所、あの祭がですね、やはり熊野に、あの、日本が、こう、開ける時から、歴史に、神話にのっている訳です。だから、ここはその、非常に特別な場所なんだ、この特別な場所で今、請われているもの、なくしてしまったもの、それをもう一辺取り戻そうじゃないか、取り戻すための方策を考えようじゃないか、それも、その、誰が、こう、上、誰が下、誰が先生、誰が生徒、というんじゃなくて、みんなこういう具合にですね、こんな風に、同じ地平に立ってですね、同じ地平に立って、座り込んで、話し合ってぶつけて行こうじゃないか、もっと時間がかかるかもしれませんその、かける時間が、やっぱり、大事なことだ、そのかける時間が、人間の、唯一、持てる時間なんじゃないか、そういう考えが熊野大学なんです。

 それで、僕はそめ、おそらくその、ここでこういう声を上げてる人間を、もう 一辺見直してみよう、あるいはその、物をもう一辺見直してみよう、なんか食べる米とか野菜だとか、そういうものを見直してみようという考えはですね、おそらくこの、ここだけじゃなくて、もっと方々で、やっぱり考えていることだと思うんです。おそらく韓国でもそうだし、インドネシアでもそうだろうし、あるいはフランスでもそうだろうしアメリカでもそうだろう。あるいはアフリカでもそうだと思うんですよ。で、これは我々がきちっと、こういう自由で、平等で、しかも愛情をもって、これ、敵対するんじゃなくて、人と対立してそして、対立、打ち勝って行くんじゃなくて、人と、愛情をもって、話しを聞いて、融和していくっていう、そういう精神でやると、みんなこう、つまり、同じ力持ってるっていうことに気付くんだと思うんです。

 だから、おそらく、この考えは、その、もっと政治で言うと、冷戦だとか、その、こう、今まで米ソが対立してた、いやその、そうじゃなくて、もっとこう、人間どうし同じなんだから話し合えるんじゃないかという、そういう大きな潮流ということにも、潮流をもう一歩、もう一ミリだけ動かす考え方かもしれません。昔はそのことが、取り敢えず我々が、この地球を愛し、天を敬い、自然をこう、敬い愛し、人を、人として一緒に生きて行けるという、そういう、今、今、我々が、こう、必要としている考え方だし行動だと思うんです。

 熊野大学に、是非集まってください。熊野大学の中で、熊野大学の外で、同じ地平で一緒に歩いて欲しいんです。これで、僕、ちょっと書いたんですけど、綱領みたいな、綱領でないんですけど、書いたので、お手元に配られていると思うんです。読みます。

(「真の人間主義」朗読)

 ありがとうございました。

【解説】
熊野大学機関誌「熊野回廊」創刊号(1990年7月)に収録。1990年6月3日新宮市速玉大社双鶴殿で開かれた熊野大学開講式での挨拶。ゲストは野坂昭如氏だった。

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わが熊野わが文学
 〈インタビュー〉発熱するアジア

富岡 最後に一つ、ことしの秋ですか、熊野で──熊野というのは先ほどもちょっとお話が出ましたが、聖地であるとともに、日本の原点というか、怨念も漂うじつに不思議なところで──ずいぷん風変わりなイベソトをおやりになるんだそうですね。この場で、ちょっとPRをしていただけますか。

中上 秋じやなくて、八月四日の早朝から五日の早朝までの二十四時間です。和歌山県の本宮町というのがあるんですけど、熊野三山の一つである本宮大社の旧大社跡なんです。そこは百年前ぐらいの昔、洪水で神社が流れたとこなんですけど、その場所がとてもいいんですよね。そこで、二十四時間のイベントをやろうと考えてます。画家の黒田征太郎さんが絵を描くんです。本宮の今の新大社から旧大社にかけて布を張りまして、ぐるっと取り囲むようにして、その布がまた新大社まで戻るという非常に長い距離なんです。三キロぐらいあるんですかね。 富岡 三キロの絵を描く?

中上 ええ。韓国のサムルノリというのがありまして、パーカッショソの方なんですけど、その彼が音楽のリーダーシップをとって、僕が一〇〇〇行ぐらいの詩を書きます。つまり、言葉と音と絵とで二十四時間やってみようというわけです。タイトルが「熊野神璽」というんですけど。

富岡 神の事ですか。

中上 神の印ですね。それで、熊野は僕にとって故郷だし、一つのテーマです。熊野というのは、いろんなことを与えてくれるんです。「熊野」は「隈野」でもあるように、いってみれば隅っこの野原ですよね。これは、とても矛盾した言い方ですよ。本当は熊野なんていうのは存在しないとこです。ところが、日本の物語の中にいっぱい出てくるんです。例えば皆さんもご存知の武蔵坊弁慶という、あの大男は熊野出身なんです。下層庶民の中では「小栗判官」という物語がありまして、説経節ですけど、その「小栗判官」が甦る湯が熊野の本宮の湯峰の湯なんです。

 そういうことで、物語のうんと隠された奥のところにある、本当の力みたいなものとして熊野があるんです。もう一つ、「小栗判官」などに明らかなように、人が甦るという場所である。さらに言えば、あそこに実際に熊野詣した人たち、つまりご利益を求めて熊野詣した人たちの中には、病気の人がいっぱいいたんです。当時でいうと、不治の病といわれたレプラの人たちがいっぱいいたんですけど、熊野はそれを許容する場所でもあった。そうしたまことに優しい場所なんです。

 そうすると僕は自分の文学を、人間の本当の価値──もちろん人間は動物じゃないから、諍うことだってありますが、それを含めたうえでも、しかし人を愛することができる、もっと誇り高く生きることもできる──そういったプラスの面がいっぱいありますよね。人を優しくするとか、一本の花なら花を優しくみつめる眼を持つことができるといった、プラスの面というか人間の本当の価値というか、そういうものを自分の文学でしっかりと上手に表現したいんです。

 当然、それは熊野の意味と重なるわけです。それを引き出してくれるような絵と音楽ということで、音楽のほうで名前が挙がっているのは都はるみさんとか原田芳堆さんとか、僕なんかと日頃よくつき合ってもらっているミージシャンの方々と一緒に、熊野の意味を形として出したイベントにしたいんですね。(以下、略)

【解説】
第三文明社『中上健次発言集成5談話/インタビュー』に収録。一九九〇年六月二十八日青山スパイラルホールにて開催された、朝日新聞社主催「アエラフェスタ90」公開インタビューより。インタビュアーは富岡隆夫氏。ここで語られたイベントを熊野大学の前身「隈ノ會」が中心となって行う予定になっていたが、諸般の事情により中止された。

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『いのちとかたち』を読むことの《意味》
 いままで熊野大学進めてきまして、ぼくの「いのちとかたち」を読む行為はずっと続きます。何回か途中で、いままでも臨機応変にしたように、今回もとりあえず「いのちとかたち」のテキストから離れまして現実の話にもっていきたい。

 ちょっと基調の話をしますと、皆、ぼくが喋っていること、あくまでぼくの意志はどんなに難しくても、皆様方からそれは分らんぞと言われたとしても、ぼくの喋っていること、講義していること、あるいはここで解釈していることは、つまり今の日本文学の、これがレベルなんだと。ぼくは、こう解釈し続けないと日本文学は存在しないんだと、そういう認識に、非常に生意気な認識、ある意味で非常に質素な認識というんですかね、そういうことに基づいて記してるわけで、決して、ここで面白おかしい話をしようとするために、毎月ここへ出てきてるわけじゃないということをご理解いただきたいんです。

 ともすると、例えば話がスムーズに動かない時には、「いのちとかたち」というのは、日本文学論、あるいは日本の美意識論あるいは美学、日本論もっと突き詰めてゆくとアジアの日本論、極東の中の日本論、そういう所を踏まえて、いま展開しようとしている。決して読み易いものじゃないし、分り易いもんじゃない。簡単に分ってたまるかという気持ちもぼくにはあるし、ぼく自身も難しいなあ、分んないなあ、と思いながら喋っている。ひとつひとつ、ことばで、そこへゆかないことにはどうしようもないじゃないか。ゆかないと、われわれここに大きな変動期を迎えている。そういう場に手さぐりで、どもりどもりさぐってゆかないと、大きな変動期で、とんでもない所へ流されてしまうんじゃないか。そういう認識あるから、ひとつひとつ進めているということなんです。熊野大学開講しまして、外へ出てきて(ここ、高田グリーソラソドへ来て)、じゃあ一晩かかって話をしよう、とそういうわけなんです。

■反組織・リゾーム状の場としての熊野大学

 今日は、人間同士の触れ合いの場所にするのも、志ひとつだと思う。
 ひとつ、説明というか、作家中上健次がおかしいではないか、という意見、多分これからもどんどん出てくると思うんですよね。
 ぼくの文学とかなんかで言うと、組織を作ったり、そういう組織に一番反対してるやつじゃないか、まさにそうなんです。

 熊野大学というのは、組織に反対する組織なんです。これは、われわれは、ここでみんな謳っているのは、こんなもの無いといえば無いんですよ、有るといえば有るんです。言ってることは、皆、先生もいないし、生徒もいないと、先生であり生徒であると。皆同じ地平に立ってるんだ、これは組識じゃなくて、一種リゾーム状の場所なんだと。他の、文化人類学で言うとトポスなんだと。あるいは磁場なんだと。ある、そこだけ磁力が妙に高いというか、そういう所なんだと。

 ここでは普通の組織形態、そんなものはいっさい通用しない。だから熊野大学というのは建物も持たないし、入学試験もあるわけじゃないし、卒業なんかも何もないと。つまり志だけでできている。組織っていうのは、分るように、その組織を延命するために、さまざまな仕掛けを作っている。その仕掛けを作っていることによって、どんどん人間の志みたいなものが歪められてしまう、どんどん無くなってしまう。組織のための組織とか、だんだんおかしくなってくるんだけど、そうじゃないんだという所から、組織に対する反組織というかね、反組織に対するさらなる反組織っていう、永久革命みたいなもんですよね。いまの時代に永久革命なんて言っても流行らないと思うんだけど。

 だからこの熊野大学というのほ、恐らくここに集う人間たちはそれぞれのものを持ってくると思うんです。で、これだけ分っていただきたいのは、その人々の志の高さで、熊野大学は存在するということですよ
ね。

 ぼくは毎回、今日は別の形になってますけど、とりあえず日本論を展開している。さらに、日本論の遠方に、要するに山本さんの『いのちとかたち』を読んだ後に、折口信夫か、あるいは別のものをやろうと思うんですけどもね。そうやって、もう少し山本さんの見えてるものを広げていこうと思うんだけど。さらに自分の考えてるものを、例えば、熊野と言うんだけど、熊野は本当に存在するんだろうかと思うんですよ。地方として、熊野地方として何となしに存在するんだけど、われわれは今、熊野と言ってるんだけど、本当に存在するんだろうか。恐らく存在しないんですよ。志の中にしか存在しないんです。

 そのために、これを、存在しないものをはっきりさせるために、はっきり存在するのを、こう、つかみ出すために、熊野のここで、熊野大学の中でね、「熊野学」の一環として、例えば沖縄を考える、ということをやってみたいと思うんです。あるいは南洋を、南方を考えたい、そういうことも講座の中に入れたいし、
今、俳句やってるっていうのは、説明しますと、熊野大学は俳句学校じゃ全然なくて、俳句の中に見えてる熊野だということなんです。

【解説】
太田出版『中上健次と熊野』に収録。熊野大学機関誌「熊野回廊」第二号(1990年8月)が初出。90年7月21日高田グリーンランドにて一日がかりのささやかなイベントが行われた。昼間は俳句吟行、夕刻は薫製作り、そして夜は中上健次氏を取り囲んで一晩語り明かすという、まるで林間学校のような内容だった。その席(中上健次さんを囲んでの「何でも言いたい放題」)で中上氏は参加者から質問を募り、それに答えて自分の考えていることを丁寧に説明した。この文はその内中上氏の回答だけをまとめたもの。後半の質問は私「ラストバルーン」が「熊野に来たら中上健次が会を作っているのでびっくりした。どちらかと言えば中上さんは会を壊す人だと思っていたので。」と感想を述べたのに答えたもの。とにかく非常に丁寧に応えてくれたことが印象深く残っている。

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第六感と統覚(シンタックス)の秘密〈非在の熊野)その係わり
第六感と熊野

 今回も本文を離れたいと思うんです。僕の方の反省もありまして、熊野大学の人々の申し出もありまして、もっと面白くしてくれっていう、そういうことでこの本にそいながら幾つかジャンピングしながら、山本さんの本を読むことを進めたいと思うんです。だから今日は、この本『いのちとかたち』をもう少し深く読むためにヒントになることを話してみたいんです。

 というのは、今日八月五日は、本当なら八月四日昨日の朝の四時から今日の八月五日の四時迄、二十四時間のイヴェントを熊野本宮大社の跡地で行う予定だったんです。ところが、色んな都合で中止になりました。中止になる経過を言いますと、これ最終総括になると思うんですが、金銭的に結局都合つかなかったということなんです、一番大きな問題は。それと同時に、熊野大学主催としてのイヴェント総合プロデューサーとしての僕が中心人物と目していた都はるみさんが、手術入院療養という事態になってしまった。他のアーティスト、ミュージッシャン、現場の方々、協力してくれる態勢はあったんですけども、どうしても僕、都はるみという人の芸能にこだわっていまして、どうしても彼女を熊野の跡地で唄わせてみたかった。

 それは、こういうことなんです。一年前に隈ノ曾が主催したんですけど、“クマノカフェ”というタイトルで、熊野本宮大社で都はるみさんを連れてきて、そこで話と、生ギター一本、それもプロですけど、流しの生のギター一本で歌を唄ってもらったんです。恐らくその過程で都はるみさんは歌手復帰っていうきっかけになったと思うんですけどもね。それでこのイヴエントを熊野でやろうと話している段階で、彼女は直接には言いませんけども、彼女の心の中に熊野の神社、あるいは熊野の神さまに報告したいと、自分の歌を奉じたいと、そういう考えが強くあったはずです。それで僕も彼女たちと演出を考えましてね。今まではあそこの神社をいつも背中に背負ったり、神社のもとの社の跡があるでしょう、あそこを平気で歩いたり、そういうことをやってたんですけど、今回は違うと。都はるみさんは奉納したいということだから、都はるみ
が、神社の石の祭壇があると、それの真前で歌を唄って、石の祭壇とこっちの舞台をつくった所と、その空間に誰も入らないで真上でみてもらおうという、そういう舞台構想考えていたんですよね。それがたまたま緊急事態になってしまった。

 もう一つ、それから色んなこと起こっているんですよ。非常に不思議なこと起っているんですよ。例えば、そのイヴエントの主要な一人であった本宮町の観光課の地元の中村課長さんですが、突然病気になりまして、入院してしまった。それからさらに、僕も知ってびっくりしたんですけど、青森の前回もねぶた製作してもらったんですけど、今回も製作してもらうつもりだった鈴木秀次さん、秀って僕ら言ってるんですけど、ねぶたの絵師、製作者ですね、彼の家が突然火事になったんです。全焼してしまいまして、ちょうど秀さんはいま、バルワッという、トソガのそばに旅行していまして、連絡とりましたら、あちらでも地震が起こって音信不通になってる。彼は今日ぐらい戻ってきてるんですけどもね。恐らく大ショックを受けるだろうという事態なんです。

 この熊野で神社の中で、芸能あるいは芸術の祭りをやろうとした。それが結局中止になって、次々明らかになってることをみますと、何か妙に、神さまが何か言ってくれてることじゃないかと思うんです。そういうふうに霊的なものとして把えた方がいいんじゃないかということなんです。

 ということは、我々人間には五感があるといいますけどもね、さまざまな諸器官があるし、さまざまな感覚機能があると。ところがもうひとつ、第六感というか、そういうものが、われわれの力で作用して、この事態、もっと悪化する事態、もっと絶望的な事態になるのをくい止めえたんじゃないかと、そう思ってるんです。
 そのこと、今日話がそういう霊的なもの、あるいは第六感みたいなもの、例えば熊野へ来ると人々はここでこう元気になる.蘇るという、そういうもの、あるいは熊野に他の聖地とは違う、他の神社とか仏閣とか遺跡とかがもってるものと何か違うものがあると、皆さんがおっしやるようなこと、そういうスピリチュアルなもの、そういうことを言いたいんです。

 スピリチェアルなもの、霊的なものというのは、まずこう考えるんです、何によってできてるのかなと。これは恐らく光だとか風だとか空気だとか水だとか、存在する自然的な条件を挙げるのが普通ですけども。その条件が普通なんだけども、恐らくここは徽底して存在しない場所じゃないのか、と思ぅんですよ。それ故に、他所の聖地、他所の場所、他所のトポスとまるで違う姿をしてるんではないか、と思うんです。もちろん熊野地方、地方と考えますと存在しますよ。人々はここに住んでるし、地方自治体も存在するし。だけど熊野の熊野として考えていると、これは存在しない場所だと思うんですよ。あるいは存在するとした
ら、ここが底抜けになってる場所、それこそどこへでもつき抜けてしまう場所ですね。(以下略)

【解説】
太田出版『中上健次と熊野』に収録。熊野大学機関誌「熊野回廊」第三号(1990年9月)が初出。90年8月5双鶴殿での熊野大学準備講座中、この日に行われるはずだった熊野大学主催のイベントに触れた部分だけを抜き出しました。(『中上健次と熊野』に高田グリーンランドにてとあるのは間違いです。)中上氏としては、精神的にも金銭的にもこのイベント中止はかなりの「痛手」だったに違いありません。しかし、それを乗り越えて翌年の「都はるみ IN 熊野神社」を成功させました。

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熊野大学という運動
〈対談〉東アジアの新しい世界観

中上 ここまで聞いてみて、僕は金芝河さんと、よく似た考えを持っているなと思うんですよ。僕の今進めていることを一つ言いますと、熊野でそれを始めているんです。僕にとって熊野というのは、芝河さんにとっての韓国みたいな意味があるんですよね。熊野は、日本の紀伊半島の中にあるんだけど、どこが熊野かわかんないんです。そういう所なんですよ。昔から歴史に登場するんだけど、はっきり熊野はわからない。どこからどこまでが熊野か、わからないんですよ。

 昔から、たとえば、戦で負けた連中は全部、熊野に逃げてくるんですよね。政権争いをして皇太子が負けたとかすると、熊野に逃げてくる。それから病気の者が熊野詣で熊野へ行って、熊野へ行くと体がもとへ戻る。あるいはそこで死ねる、と言われていた。もう一遍蘇ることができるという、そういう思想があると思うんですよ。物語でもいっぱい熊野が出てくるんですけど、熊野はどこからどこまでかわからない。
 僕は熊野の被差別部落で生まれたんです。熊野のいちばん熊野たる所で生まれた。熊野って場所は、僕にとっては海の底に筒抜けになっているような、底から地上から天まで筒抜けになっているような、そういう場所みたいに映るんですよ。

 それで、僕は毎月通って行ってるんです。毎月一遍、そこで講演会しているんですよ。こういう座敷で坐り込みましてね。だいたい五十人ぐらいなんだけど、もともとは被差別部落の若い連中と始めたんだけど、それがだんだん人が集まりまして、熊野大学というのをつくったんですよ。建物も何もないの。ただ行って、思想を掴む。きっちり築き上げる。どういう思想かというと、熊野は、つまり徹底的にやさしい。そのやさしさの根本を突き詰める、ということなのですね。

 僕自身は被差別部落出身だから、上も下もない。まったくみな平等なんだというところにいます。そのやさしいということは、愛という問題になりますね。本当に人が人と愛し合うという、その愛がいちはん価値があるんだという考え、それを僕は熊野で捕まえようと思っているのです。だから具体的にすでに熊野大学といぅ組織をつくって、そこでコツコツ、講演会だとか学習会だとかセミナーだとかイベントだとか、というものをやっているんですよ。

 あなたの話を聞いてて、よく似た衝動に突き動かされて、よく似たことを考えているなと思うんです。母風堂というのも本当に、最初冗談で聞き始めて、今、僕らの競い合っている一つの彼方をはっきり発見さすための大きな、彼方の高みですよね。彼方を発見させるための大きな回帰、つまり導いてくれる思考方法になるんじやないかなと思うんですけどね。

 私が全羅道の海南(ヘナム)に行ったいろいろな動機の中の一つとして、自分の故郷で共同体運動をしよう、という考えを持っていました。そこから運動を始めて、徐々にソウルに向かって進撃しようとしたんですけど、病気にかかり、また問題がたくさん起きて、また一つの考えとして、共同体運動も重要だが、共同体運動も含めて、全社会的運動が必要だ。とくに文化運動が必要だと考えて、ソウルにまた帰ってくることになってしまった。

 中上さんの話を聞いて、単に小説家としてでなく、自分の故郷でそうした運動をしているというのは大変感動的で、それは決して小さいことではない、と私は思います。(以下、略)

【解説】
第三文明社『中上健次発言集成4対談IV』に収録。初出は「中央公論」1990年8月号〜9月号。対談相手は金芝河氏。熊野大学について語られた部分を抜粋した。

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熊野大学について
 〈インタビュー〉夏芙蓉と金色の鳥

藤森 今やっておられる熊野大学についてですが、ああいう形で始められたのはいつごろからですか。

中上 平成になってからです。昭和天皇が崩御した月からやり始めたんです。

藤森 天皇崩御と関係あると考えていいんですか。

中上 いや、大きく言えは、時代というのが大きく変わりましたね、我々、天皇制のもとに生きているんですから。だから僕は、天皇ということに関してすごく関心をはらわざるをえない。それとは具体的にはかかわってないんだけど、熊野で、熊野の人間と一緒に、熊野の思想を見つけたい、それを長い期間にわたってやろうという考えを持つようになったこともあるんです。それは大きく言えば、日本の文化とかかわりありますから、当然天皇とかかわる。

藤森 どういうテーマでやってられるんですか。

中上 日本論をやっているんです。山本健吉さんの『いのちとかたち』という本を一章ずつ読んでいく。一章ずつ僕は自由に読み、あるときは批判し、あるときは拡大解釈し、あるときは山本さんはこういうことを言いたかったんだと解説する。「日本の美の源流を訪ねて」というサブタイトルがあるんですが、だから言ってみれば日本論です。この日本は日本というけど、むしろアジアと置き換えたほうがいい。アジアではこういうことがある、韓国にはこういうことがある。インドネシアにはこういうことがある。いつもそうやってアジアの目というのを入れて、『いのちとかたち』を読み解いているんです。だから、別な形の山本健吉論でもある。

 もちろん熊野大学というのはそれだけじゃなくて、俳句の人が来てくれて、句会をやったり、俳句の講義をやったり、そういうこともやってるんです。

 熊野という場所で何が考えられるかというのがテーマです。僕は熊野というのは存在しないと思うんです。つまり熊野が存在するのは、物語があって熊野が存在する。あるいは中上が熊野と言い始めて、熊野が存在する。熊野地方という地方はあるけど、熊野というものは言葉がない限り存在しない。だから、言葉を見つけよう。その言葉というのは、おそらく、アイルランドにも共通のものだろうし、アメリカにも共通のものだし、韓国も共通のものだろうと僕は思うんです。その共通のものというのほ、おそらく人間のほんとうのやさしさだとか、人間には価値がある、そういう考えなんです。我々は自由に物を考えられます。犬と違うのはそこですね。あるいは人に対する想像力を働かすことができる。人を愛することもできる。もちろん憎むこともできるんだけど。それから、気位高く生きられる。そういう、人間のルネッサンスで見落としたようなものが熊野にいっばいあると思うんです。例えば、ゆがんでいる美というのがあるだろうと思う。説経節なんかが教えてくれるところですね。そういうものを見つけたいんですよ、根本的なやさしさみたいなね。だから、泉鏡花が高野聖のところへ出かけていった、あれは言ってみればユートピアみたいなものじゃない、ああいうものね。単にきれいな、雑菌がなにもないような、そういうところではなくて、雑薗だらけで、一切合財共存しているようなところ、そういうものが熊野だろうと思うんです。熊野が打ち出せるやさしさとか狂暴さとか、そういうものだろうと思うんです。

編集部 『讃歌』なんかにもかなり共通するものがありますね。

中上 まさに、そうです。

藤森 月に何回ですか。

中上 月に一回で、一日。毎月行くんです。だから、僕の熊野詣でですよ。行って二十四時間滞在して、すぐ帰ってくる。ただ、作家というのはひどいね。おふくろのところに行くでしょう。そうすると、いろいろ見て、作家の目が動くんですね。これが嫌なんだ。(以下、略)

【解説】
第三文明社『中上健次発言集成5談話/インタビュー』に収録。初出は「すばる」1990年9月号。インタビュアーは藤森益弘氏。熊野大学について語られた部分を抜粋した。

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志としての都はるみ
 歌と文学が乖離(かいり)したのはいつからか、声と文字が離反し、それぞれが憎悪を抱き、敵意を潜め、あげくこの言の葉の繁るくにの、文物と芸能が地に堕したのは、何時からのことなのか?

 千年の霊地熊野で千年の都で誕生した歌手が歌声を上げる。都はるみが歌う。その意味に戦慄を禁じ得ないのは霊地熊野を背負った作家一人であろうか。いや、歳若い大兄たちの意識無意識の共感を得ることと信じる。

 熊野の霊地で作家中上健次は熊野大学を設立した。これはこのくにの言の葉が紡ぎ出す本当の思想としての熊野の発見を目指してのことである。

 熊野とは何か? 都に対立する周縁、アジール、蘇生の場所、トポス、ゾーン、ボーター、なによりも優しさに満ちた黒潮の洗う縄文の人々の生きる場所。ここから南島が見えアジアが見える。

 熊野大学は思想として熊野に問い、熊野を照射し、熊野から語りかける。その熊野大学が熊野本宮大社大斎原で都はるみのコンサートを企画した。入場料なし、スポンサーなしのコンサートである。あるのは志だけである。有志諸君、歳若い大兄たちの志が緊急に必要である。八月二日から五日熊野に馳せ参じないか? 八月四日の夕刻から夜までの、このくにの本当の芸能と文学のまつりに同志として立ち会わないか?

【解説】
集英社『中上健次全集第15巻』、恒文社21『中上健次エッセイ撰集[文学・芸能篇]』に収録。1991年8月4日に中上健次氏がプロデュースした「都はるみ IN 熊野神社」のボランティアを募るために、「紀南新聞」(1991年6月6日号)に掲載された。野外ステージの設営、当日の場内整理など、熊野大学スタッフだけでは足らず、多くの人手が必要だった。この檄文に応えて熊野大学に参加したのが、杉浦圭祐君(俳人)だった。

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本当の資質
  熊野を何と叙述しよう。日本の最深部。故郷の中の故郷。その熊野で創設された大学、熊野大学。その大学が、牟婁叢書として銘打って志を世に問う第一弾が、この宇多喜代子句集『夏月集』です。まず、『夏月集』の出版その事が、熊野とその思想の顕現化をめざす熊野大学の、日本の、詩歌文芸の世界に対する、不意の一撃(クー・デ・タ)だ、と認識してもらいたいのです。

 画期的な句集です。それは第一に、三百句の書き下ろし連作、という点です。五十句の連作でも、連作は力量を問われるものですが、宇多喜代子は、息切れもみせず、旧来のありきたりの俳趣に逃避する事なく、三百句を詠いきるのです。何故、そのような事が可能だったのか、考えてみれば、根本は、立句にことごとく起因すると思うのです。

  天皇の白髪にこそ夏の月

 堂々とした、交響的な効果を持つ句です。白髪の天皇。この天皇の御姿は、当然の事であろうが、平成の時代を拓かれた今上天皇であられるが、熊野のこの場所から見れば、はるか遠くの時代の、天皇の御姿にも重なります。夏の月に浮かび上がる、銀色の髪。

 詩句に導かれ、想像の翼を広げ始めて、その翼が禁忌に触れる思いを抱くが、宇多喜代子は、水の女の感性でもって禁忌を突破し、大胆に詠うのです。〈天皇〉と言い、〈白髪〉と言い、それ自体、巫儀的な詩句が出てくるのは、宇多喜代子自身の、水の女、つまり、神の嫁、の自覚に原因しているのです。矢でも鉄砲でも持ってこいという境地になるのは、火を見るより明かですし、また神の嫁とは、あらゆるタイプの女性にもなれるという事なのです。交響的な立句の、句集全体を交響的にする秘密が、ここにあるわけです。これらの事は言葉を言い換えれば、前衛的な作句に、心傾けていた宇多喜代子が、成熟し、伝統俳句の本道をも担う俳人であった、と明らかになった、という事です。つまり本当の資質が、鮮明になった、という事なのです。

【解説】
恒文社21『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』に収録。初出は1992年1月7日発刊の牟婁叢書 宇多喜代子句集『夏月集』(熊野大学出版)に挟み込まれた栞。中上健次氏は、熊野大学の活動を世に問うために一連の牟婁叢書を企画していました。牟婁叢書はその後も茨木和生句集、松根久雄句集と続きますが、中上氏の生前に刊行されたのは宇多喜代子句集だけでした(ちなみに、その一冊に「中上健次詩集」が予定されていました)。中上氏は病床にありながらも刊行に尽力し、装幀を菊池信義氏に依頼、自らも筆を執りました。なお、奥付の1992年1月7日は昭和天皇崩御の日を念頭に決定されました。

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